猶予を返して

2回目のワンドロチャレンジです。 

テーマ「お気に入り」



Piは不機嫌だ。
元々の性格、そしてこれまでの辛い過去ゆえの圧倒的人づきあいの経験不足。
そんなこんなで、いまだ自分の気持ちを表現するスキルは発展途上。
だから拗ねることは多いのだが、とにかくPiを全力全肯定のMorkと付き合うようになって意味不明(傍目には)に機嫌を損ねることは減ってきていた。

しかし今回はなかなかに手強い。

二人がいるのは車の中。
いつものように朝大学に登校するPiをMorkが迎えに来たのだ。
そういつもの朝だったはずなのに、Piは迎えに来たMorkを見るなり表情が抜け落ち、投げやりに車には乗り込んだものの一言も口をきかない。

「どうしたんだよ、Pi」
「気に入らないことがあるんならちゃんと言って」
それでも辛抱強く語りかけるMork。
しばらくするとそっぽを向いていたPiがやっとMorkの方に向き直った。
その顔はなぜか朱に染まっている。
そして息を大きく吸うと 
「前髪…」
と空気を多めに含んだ声で呟いた。

「は?前髪?」
予想外がすぎる単語に戸惑うMork。
「前髪がどうかしたか?」
「切り過ぎだっ!」
今度はいきなりボリュームが上がる声。
マイクなら確実にハウリングを起こしている。
いや、確かに昨日授業が終わったあと久しぶりに美容院には行ったが。

「たださえお前目立つのに、そんなに短くしたらよけいに目立つ」
Piの口調こそ突慳貪だが、水面の三日月のように不安定に揺れる瞳でMorkは何となく察した。

MorkとPiが恋人になったことは大学内では有名な話だが、それでもそこらのモデルが赤面して逃げ出しそうな美貌とスタイル。
人当たりが柔らかくて快活でスポーツも得意でしかも医学部。
もてる要素の豪華詰め合わせみたいなMorkに近づいてくる人々は減ったとはいえ途切れることはない。

そんな中新しい髪型を見たらいろいろ勘繰られるのではないか。

負のスパイラルに陥りやすいPiの思考回路は容易に修正できるものではなくて、そのことは長くない交際期間でもMorkなりに理解している。
むしろそれも含めてPiを好きになったのだから。

頑是ない子どもをあやすようにそれでもできるだけの恋人への愛おしさを込めてPiの柔らかい頬を撫でながら
「何だ?みんなに俺が失恋したとでも思われるのを心配しているのか?」
「Piがなかなかそう思えないのはわかっているつもりだけど言いたい奴には言わせておけばいいよ」

「わかってる、それもあるけど」
口ごもりながら言ったPiの声はまだ沈んではいたけれど頑なさはもう消えていた。
するとMorkは殊更見せつけるように前髪を触りながら目を眇めて
「どう?これも似合っている?」
とからかいが滲む声で尋ねた。
「知らないよっ!」
また窓の方を向いてしまったPiだがただただ照れているだけなのが如実だった。

(ホントに今日もPiは可愛いなあ) 
またPiに怒られそうなので何とか口には出さずMorkはエンジンをかけた。

(でも)
(それ『も』あるって言ってたよな、確か)
ちょっと引っかかったものの賢明なMorkはひとまず深追いはしなかった。


(そんなに前髪短くされたらもろにお前の目を見なくちゃいけなくなるじゃないか)
朝から無駄に疲れたPiはいつも以上に深く車のシートに身を沈め、運転するMorkの涼やかな横顔を盗み見る。

周囲にどれだけ人がいようと、そして二人きりなら尚更Morkはひたすら真っ直ぐにPiの目を、目だけを見つめてくる。
それはPiがこれまで知らなくてこれからも知ることなどないと思っていた甘い疼きと少しの誇らしさをもたらす。
でもMorkの眼差しの奥に潜む熱に気圧されることもしばしばで。

だからこそ長めの前髪がMorkの目にかかると一旦猶予を与えられたようにPiは息がつけてとても気に入っていたのだ。
(かき上げる仕草が色っぽくて好きなのはまた別の話)


そんな当人以外には惚気としか映らない物思いから我に返ると信号待ちだったので、Piはほとんど無意識に自分の側のMorkの手を取り自分の左胸のあたりに押し当て
「早く前髪伸ばして」
「じゃないと俺の心臓が保たない」
「Pi?!!」
Morkが一瞬青信号に気づくのが遅れたのも仕方ないことで。
もちろんPiの言外の真意はさっぱりわからなかったが。
自分こそ名手のごとく恋人の心臓を射抜いたことにまるで気づかないPiではあった。