空から訪うもの
バンコクのフラワーマーケットは24時間営業ということなので。
今はこんな状況なので閉鎖されていそうですよね。
また花を選ぶ人たちで賑わいますように。
(ずいぶん遅くなってしまったな)
Morkは知らず知らずのうちに溜息をついていた。
(今日は早く帰りたかったんだけどなあ)
予定通りいかないのがこの仕事のさだめ。
担当の患者が急変してその処置にかなり時間がかかったのだ。
心身ともかなり疲弊しているが、それでも明晰な、そして最愛のPiのことになると途端に滑りが良くなるその頭脳で大切なこの日に今からできる最も効果的なお祝いを考える。
平日だから特別なことはいいよ、と言っていたPi。
記念日などには案外拘泥していないさっぱりとしたところのある彼らしい。
事実お互い多忙なこともあって、去年は気がついたらこの日は過ぎていた。
だが今年はちゃんと覚えていた。
今日はバレンタインデー。
ならばPiのことになるといくらでもロマンティックになれるMorkとしては手ぶらで帰宅するわけにはいかない。
結果立ち寄ったのはチャオプラヤー川沿いのフラワーマーケット。
ここは何と24時間営業なのだ。
さすが愛を告げる日、かなり遅い夜のこんな時間でも大勢の人々で賑わっている。
様々な花から溢れる匂いと押し寄せる色の波に一瞬目が眩む。
そのまま目を閉じてあの日を思い出す。
おびただしい数の風船を手に校舎の屋上に駆け上がってきたPi。
俺みたいな奴がそばにいることでお前の評判が落ちてみんなから嫌われるのが辛い、と泣きそうだった顔。
Piの兄のDueanを筆頭としたお節介でうっとうしくも気のいい彼の仲間たちのおかげもあり、自分の気持ちを包み隠さず打ち明け、キスすることができた。
それを受け入れてくれたときのPiの嬉しそうな顔は一生忘れられないだろう。
笑みを湛えたまま自分の方から返してくれたキスも。
その後彼が手にしていた風船はどうなったのだろう。
憧れ続けた空の魚を地上に、Morkのところに連れてきてくれたもの。
いや、どこもなにもまた空へ帰っていったのだ。
あれから何年経ったのか。
この上ない幸福感ですら日々の身過ぎ世過ぎで褪せてしまいそうになることもある。
いつでもPiが最優先のMorkであっても、だ。
もちろんそれは医師と歯科医という仕事が辛いことがありながらも充実していて、二人での暮らしも穏やかに緩やかに紡がれている証でもあるのだが。
だからこそ大切な一葉をいまひとたび取り戻そう。
あのときの風船の色は、と記憶のアルバムをめくる。
ゴールデンシャワーの黄色。
濃いめのピンクの薔薇。
目に痛いくらい鮮やかな青のアネモネ。
難しい水色はやっぱり定番のブルースターで。
これらを白のジャスミンで囲んで、同じく白のリボンをかけてもらった。
それを大事そうに抱えマーケットを後にするMorkは間もなく会える愛しい人のことで頭が一杯で、自分がどれだけ注目されていたかなどにはまるで気付いていなかった。
「え?モデル?何かの撮影?」
「でもそれだったらクルーがいないよ」
「それにしても幸せそうな顔、贈られる相手が羨ましい」
などの囁きがさざ波のように起こっていたことなど知る由もない。
あの日のあの瞬間を閉じ込めたこの花束を見たPiはどんな顔をするだろう?
最初はさぞかし怪訝そうでわかってくれないかも。
でもMorkが種明かしをしたら頬を染めて
「ホント、お前よくやるよな、こんなこと」
「どれだけ俺のこと好きなんだよ」
とぶっきらぼうに言うんだろうな。
そして花束にその怜悧で整った小さな顔を埋めて、口角が上がる大好きな笑顔で匂いを確かめてくれたら最高だ。
家路を急ぐMorkは自然と早足になった。