あれはひばりじゃない

最近の韓国BL創作のビックウェーブに乗ってみました(笑)

どうしても書きたかったロミジュリネタ。
強引なのは百も承知。
最初に観たときから8話のあのテジュは私にとってジュリエットだったので。









グクが廊下の掲示板に貼られたポスターに目を留めたのは、梅雨真っ只中の六月の終わりの昼休みだった。

「英語研究会朗読劇〜ロミオとジュリエット

開催日は来週の木曜日の放課後。
場所は音楽室。
 
けれど以前のグクならそのポスターに気づくこともなかったはずだ。

スマホのスケジュールを開くと、その日は同級生のヘミの母親が経営しているトッポギの店のバイトも入っていなかった。

シェイクスピアってイギリスだったよな、とぼんやり彼は考えた。
「行ってみようかな」
呟きは窓を叩く雨音に紛れて当の本人にも聞こえなかった。

そしてグクは手にしたチョコ牛乳を思い出したようにストローで一口飲んだ。


そう、愛して愛してやまないのに別れなくてはならなかったその人は今イギリスにいる。

テジュが渡英してから、グクは自分でも可笑しいくらいイギリスに関するものが気になるようになった。

音楽はUKチャートを聴くようになったし、コーヒーより紅茶を飲むことの方が多くなったし、少し前の週末にはヘミを誘って、アフタヌーンティーが評判のカフェにも行った。

お洒落な若い女性が大半の客層に多少の気恥ずかしさは覚えたが、普段からあまり周囲のことを気にせず泰然としているヘミのおかげもあり、伝統的なスコーンや、最近特に人気の色鮮やかなマカロンなどを楽しんだ。
一人暮らしで自炊もお手のもののグクは、食べることへの好奇心も旺盛だった。

店を出るとヘミが愉快そうに言った。
「お店のお客さん、みんなグクのこと見てたね」
「そりゃこんな図体のでかい男があんな店にいたら目立つだろ」
と何でもなさそうにグクは答える。
「相変わらずわかってないのね」
とヘミは整った顔でため息混じりに肩をすくめる。


柔道で鍛えた体は洋服越しでもしなやかな筋肉が感じられるし、手足はどこまでも驚くほど長い。
派手ではないけれど端正な顔立ち。
何より薄い茶色に煙る瞳のその年齢に似合わない大人びた眼差しが、見る者の心をざわつかせる。

それなのに本人は自分がいかに注目を集める存在なのか全く頓着していない。

それはこれまで常に影のように主人に寄り添ってきたこともあるだろう。

けれどそれより何より彼の心をとらえているのはいつでもたった一人。
その誠実さで、勉強にも、バイトにも、自分を気遣ってくれる周囲の人々にも対するグクだが、その視線が本当に見つめているものはそこにはないのだ。

それはひどく悲しいことでもあり、でもその揺るがなさはもしかしたらこれ以上はない幸福なのかもしれない。

一連の出来事を傍らで見てきたヘミ。
テジュと別れて以来、グクを見る彼女は自分では気づかないうちに泣きじゃくる子どもをなだめる母親のような顔をしていることがある。


そして朗読劇が行われる木曜日、グクは音楽室に向かった。

TBグループ会長の御曹司のボディガードとして、英語も身に付けさせらたグクではあったが、さすがに中世の英語で繰り広げられる劇にはとまどった。

しかし、何と言ってもあまりに有名なあらすじ、それに主役の二人がなかなかどうして相当な演技力だったのもあり、次第に惹き込まれていった。

そしてロミオとジュリエットが初めて結ばれたその夜が明けていく有名な場面。

別れを告げ、部屋を出ていこうとするロミオに
「もう行ってしまうの?まだ夜も明けないのに。あれはナイチンゲール、ひばりじゃない」
そう言って引き止めようとするジュリエット。 

その台詞を聞いた途端、グクの脳裏にあの日の光景が、テジュがイギリスに発つ日の夜明け前の光景が、部屋に差し込む淡い月明かりとともに蘇った。

「もうすぐ朝が来る」
そう言ったテジュの声は、困ったときいつも自分を頼ってくるそれと同じだった。
幼い頃から何度も何度も聴いた声。

わがままで思ったことをすぐ口にするテジュで、いや、それは確かにそうなのだけれど、心の奥底に横たわるものはさっと紗幕を張ってしまうので、グクは彼の声音のちょっとした変化を、まるでピアノの調律師か何かのように注意深く聞くようになった。

(それで耳が弱点になったのかも…)
などと思う間もなく、気がつくとずっと焦がれに焦がれて自分でも何を望んでいるのかわからなくなっていた、でもやっぱり一番欲しかったテジュの細身の体を抱きしめていた。

十五年越しの決死の覚悟でしようとしたキスは
「血が出てるからキスはダメだ」
と拒まれてしまった。
グクの唇にこびりついてしまったそれは、主従関係を超える二人の気持ちを知ったテジュの父親がグクに加えた制裁の跡だった。
そしてその父親の命で、テジュはイギリス行きを決意した。グクを守るために。


(ジュリエットは死んだ、ーまあ実際は仮死状態だったわけだがーロミオにもためらわずにキスしたのにな)
ロミオの唇にはまだ毒薬が残っていたかもしれないのに。

心の中で軽口を叩きつつ、でもグクは思った。
(お前も夜が明けるのが辛かったのか…)


"It was the Nightingale,and not the Lark"
テジュの声で胸の中で再現してみる。
まあずいぶんとやんちゃで口の悪いジュリエットではある。

それでも殊更そうしようとしなくても自然と思い浮かべることができるその顔。
毎日一番身近で見て、それでも毎日その美しさに胸を塞がれるような思いをさせられた顔。

神様の渾身の作、と思わず言いたくなる完璧な二重、その下には黒目がちの揺らめく湖面のような大きな目。横顔をこの上なく魅力的に見せるすっきりとした高い鼻と顎の線。酷薄さと悪戯っ子を同居させる薄めの唇。その下にはこれまた抜群に均整のとれた肢体。特に長めの首筋ははことさらテジュを魅力的に見せていた。
その首筋に顔を埋め、口づけて、そして…
暫しグクは数え切れないほど繰り返した不埒な想像を巡らしていた。

ともあれ、どんな綺麗な女優よりグクにとっては最高のジュリエットだ。

(それなら俺はロミオってことか)
とふと思いついてしまったグクだが、すぐにそんな考えは脳裡から掃き出した。
大体が自意識というものから見離されている彼なので、自分を悲劇の主人公について見立てることなどできないのだ。

(でも…会いたくても会えない状況にあるのは確かだしな)

気がついたら朗読劇は終わっていた。

晩御飯の買い物にスーパーに寄っていると、すっかり日は暮れていた。

梅雨の晴れ間だったので今夜は月明かりが辺りを柔らかく青白く濡らしていて、どうしたってあの日の夜明け前を思い出させる。

鳴き声も知らないナイチンゲールがさえずり続けていれば、二人はずっと一緒にいられたのだろうか。
次お前に会えたら、ずっと朝など来ないどこかへ行ってしまおうか。

制服姿の高校生は、スーパーの紙袋を抱えながらひととき中世の詩人になっていた。